2022年10月定例会

日時:2010月10月8日
場所:港区 生涯学習センター
議題:① 村上 :「グリーングローバルオアシスジャパン」と「エコロジー・バイオ・ランド」について
②上草 :「日本語の誕生」
「グリーングローバルオアシスジャパン」と「エコロジー・バイオ・   
ランド」について

GEOSSの考え方を村上氏の長年に亘る技術や技術知そして地球環境を含む理学的な観点のみならず生産・消費・廃棄状態を総合した。総合循環システムである、ゼロエミッションに限りなく近づけている、ライフスタイルの提案をご紹介戴いた。
添付資料:①国連環境本部への国際環境規制への提案(「グリーンオアシス
ジャパン」構想について)②宇宙自然法則③その他

幅広い分野での研究、提言を行ってきた中で、(日本創造学会、発明科学研究会、埼玉大学との共同研究、人工物・技術知、アブダクション研究、マクロエンジニアリング学会、日本知財学会、及び当学会等)環境と技術研究、発明、知財等とのイノーベション創出の研究を通じて、以下の9項目の公共的利益分野に設定されている全地球観測システム(GEOSS)を活用して、地球温暖化などの諸問題対する持続可能な社会をめざす研究を行ってきた。
  災害:自然及び人為起源の災害による、人命及び財産の損失の軽減
  健康:人間の健康と福祉に影響を与える環境要因の理解
エネルギー:エネルギー資源管理の改善
気候:気候変動と変化の理解、評価、予測、軽減及び適応
水:水循環のより良い理解を通じた、水資源管理の向上
気象:気象情報、予報及び警報の向上
生態系:陸域、沿岸及び海洋生態系の管理及び保護の向上
農業:持続可能な農業及び砂漠化との闘いの支援
生物多様性:生生物多様性の理解、監視、保全
 これらの全地球システムとして、「グリーン・グローバル・オアシス・ジャパン」の概念として纏め、提案している。
 2015年のCOP21 の「パリ協定」におけるゼロエミッションに対して、日本でのあるべき姿を以下の4点にまとめ、提言した。
①狭小な日本で、国土の活用、和の制止に富んだ民族がコミュニティ社会を作る中で、生産・消費・廃棄状態の自然循環融合帰還状態変化の総合循環システムであるゼロエミッションに限りなく近づけていく、ライフスタイルの提案
②日本列島改造論に端を発する成長から、将来を見据えて、持続可能な循環型の居住空間を残すべく、人の住みやすい環境の構築として、「エコロジー・バイオ・ランド」のライフスタイル(和の精神、地域の活性化、就労、健康、生きがい)を提案する
③国家プロッジェクトとして自然生態環境循環型ライフス退路の元。公益性の観点から国家組織、行政組織を提案する。(特定政党、宗教、企業、団体の便益性を超越する)
④地域/地勢、気候、土壌の性質や地域の特徴wp踏まえた「エコロジー・バイオ・ランド」合点居合いされる事を望む。
⇒このような論点を討議して行くことは、まさに総合知的な知の集合、統合となる。 今後、このような論点での議論を深めていきたい。
 科学技術が進む中、宇宙(人工衛星でのセンシング、監視も含め)や全地球としてのそして人間の行動や意思決定も含め議論を深めていきたい。
 2)日本とアメリカ(西欧)の発想において、アメリカは設計主義で、設計段階できちんと決めて動く、決める人は大卒で専門エンジニアが主導している、特にデータを重視して、統計学も利用し分析的である。一方で日本は運転主義で、現場での改善、改革が得意である。主に工業高等専門学校や職工といわれる現場主義者が進めてきた。戦後すぐ導入された品質管理におけるデミング博士の指導を受けたPDCサイクルは上手く適用した。
しかし、本当にデータを活用しての考えが弱く、さらにや社会システムとしての発想が無いのが現在のボトルネックとなっているのでは無いか。
いわゆる部分最適のすりあわせの集合でしか無い等の発表があった。

2.「日本語の誕生」
縄文人、弥生人そして、日本人のルーツとも関わる問題として、「日本語」を縄文語が現代の日本人の言語に大きく影響と痕跡を残していること。そしてなぜ、日本語が中国語とは全く異なった言語となったか、歴史的な統治の形態、そして隣国、中国との関係(支配されずに:植民地化せずにきたか)や遠く、インド(ドラビダ系のタミール語・タミール人)よりの交易出トライした人々の言語が日本の言語や土地名②の小手甍の疑問についても論議された。
1)文字を残さなかった縄文人は、どの様な言葉を果たしていたのか、特に縄文後期(紀元前500年以降)から弥生時代に掛けて何が起こったのか。
中国の内乱:呉越の戦いに敗れた呉の国の民(倭族・倭人)の一部が長江を下って、長い時間を掛けて日本に移動、到達(非常に大多数の民が)し、元々の縄文人に対して、当時(彌生末期には)の人口の80%<これは計算として、異論が多いが>が流入し日本多くの変化をもたらした。(経路は、東シナ海を渡り、又朝鮮半島を経由して)彼ら(原渡来人)が使用していた母語(言語)は、中国語でそれを継承していたにもかかわらず、中国語が残らず、現在に至る日本語(和語)となったのかまだ明らかにされてこなかった。
注)呉の民族や雲南地方の人々は、ベトナム、ラオス、ミャンマー、タイ等にも逃れた。当時の生活は、稲作をもたらし、高床式住居に暮らしたとされる。(従来高床式建屋は,倉庫として使用と考えられてきたが現在は住居使用とされた)
2)本来なら、大多数を占めるようになった中国からの渡来人の言語が、縄文人が使用していた和語に置き換わったのか。(中国語を捨てたのか)
特に彌生から古墳時代に移る頃には、宗教においても従来、中国の国教が儒教であったが、新たに仏教が伝えられた(五胡16国時代,特に北魏)事にも寄る。(日本では、AD200年頃の卑弥呼の時代からAD400年の倭の5王の時代:日本の統一の前)
九州北部に定住した民族は、度重なる幾多の部族でいくつかの集団を形成し、3世紀末頃には、畿内へ進出した。一方で大陸との交流は続いたと言える。このなかで、従来の縄文時代から受け継がれた神話は、大陸の影響を受けながら古事記や日本書紀にまとめられた。このなかで日本の天皇の系図を作り「正統性」(正当性)を対外的に(対中国に)照明しようとした。
これらの中で、漢字を導入しながら縄文系の原住民(原日本人)の話し言葉(原日本語)でつづった。(万葉仮名:変則的漢文体:古事記、一方日本書紀は漢文(中国語)で編纂されている)(新たな漢字仮名混じりの和語<日本語>が産み出された)
書き言葉(としての漢字体)と話し言葉(としての片仮名)が成立した。
渡来系の弥生人系が中国語を使わなかった(捨てた)理由としては、古墳時代(250-600年)に、大陸に対して独立国としての意思の表明(自他の相違を示そうとした)、植民地化を防ぐためだったとも言える。
一方で、当時からインドより南シナ海、東シナ海を経て銅や金属等を求めてダウ船に載りタミール系の民族が度々日本近海へ来ていた事も知られている。(日本に、インド由来<ドラヴィダ語系タミール語>の言葉が多く残されている。さらに文法が日本の文法と穴地形態を取っている。(昔、大野晋博士が日本語とタミール語との親近性を唱えていた)(現在では、共通する言語が2500語以上と言われており、特に航海に関する物が多いと言えるとの事)
この時期にすでに、広範囲の交易が行われていた。(縄文時代後期以降)
⇒私たちは、中国、朝鮮との関係はよく知られていたが、インド(南インド)との交易はほとんど知らなかった。(北部インドでは仏教の聖地、聖典、仏舎利等やガンダーラ美術での関係は知ってはいたが) 
3)日本人の国民性について、強力な指導者に一方的に統合されることを好まず、一方で他人から後れを取ることを好まず互いに競争し、且つ集団内部で談合等により処理する。支配者―被支配者の二分法的概念が比較的稀薄で、死いい段的意思決定は全員一致が望ましい。・・・空気に支配されることも含め
そして、言葉と事実、事実とその価値の峻別が少なく、主観的な誠実さ(ホンネ)
と客観的な真実(タテマエ)を同一化しやすい。事象を2分化しやすい。
4)倭族の渡来(BC200年頃)により病原菌が国内にもたらされ、多くの縄文人が免疫が無く死亡し、人口減少が起こった。
又弥生時代にもたらされた稲作環濠式稲作技術が生産力、財力を高め、後に大規模な環濠集落と環濠(ク二)が生まれ大きくなり、段々と地域国家や広域国家連合につながった。(AD146-184 年頃には倭国大乱と言われるような時代を迎えた。<いずれも中国の史書に記載>)(第1回の大乱)
この当時の日本語は、中国語と縄文語の混血言語<クレオール:植民地語>の様相を呈していた。
当時の日本の権力者(渡来系)中国との和平状態を維持するため、朝献使節(遣隋使、遣唐使以前にも何らかの使節:出なければ金印や銅鏡等はもらえない)があった。AD237年頃、卑弥呼の時代にもにも北九州地区では大乱が起きた。この頃和語を発話言語として採用されたと言える。
公文書としては、AD659 年の斉明天皇の遣唐使で初めて「日本国」が明記された。遡って、倭の5王の内、「武」雄略天皇以外は明らかで無く、この時代が大乱時代で、権力の確立並びに和語の使用推進と「倭語<母語・中国語>」の使用禁止へと向かったかもしれない。但し、中国政権に対して敵対しないとする配慮が必要であったでは無いか。この流れが、現在でも縄文由来の和語を基礎として会話し、書き言葉に多くの漢語交じりとなっている。 以上

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